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二の丸御殿群

江戸時代後期の図面によると、篠山城二の丸には、色分けによって、大書院、小書院、表御殿、大奥御殿、ナガ局の五棟が描かれています。
1981年から84年にかけて、二の丸発掘調査によって発見された遺構に図面を重ね合わせるとほぼ一致し、描かれた図面が正しいことが明らかになりました。
また、この発掘調査によって明らかになった一つとして、築城後、ごく早い時期に二の丸の建物がかなり建て替えられたり、江戸時代を通じて、再三にわたって二の丸御殿群の増改築がされたこともわかりました。
しかし、二の丸大書院のみは築城当初の建物として廃城時まで存続していました。
御殿は、建てられた所によって本丸御殿、二の丸御殿、西の丸御殿と呼ばれていますが、本丸御殿を正式のものとし、二の丸以下の御殿を格下げしたものではありません。
また、御殿は城主の住居であり、城主の政務の場所であって城郭建築としては扱われず、櫓や城門のように武家諸法度の制約を受けることなく、新築、増改築は自由に行うことができました。
このようなことから、種々の用途の建物があり、一般に表(表向)と奥(奥向)に区分され図面では色分けをして、人の出入りには厳格な規制がありました。城主の日常生活や執務のための建物は中奥と呼ばれ、表と奥の中間に位置しました。
奥と呼ばれたところは、夫人の住居や城主の保養のためのものでした。 また、障壁画も表と奥では随分違っていたようで、表は極彩色の豪華なもの、中奥は淡彩色のもの、奥はどちらかというと水墨画の簡素なものが用いられたともいわれています。
 文久2年(1862)参勤交代制度の改変により、城主の妻や嫡子は江戸住まいとなり、幕府要職者の城主は江戸定府であったため、城内の御殿には入らなかったといわれています。
篠山城の場合も表向と奥向がはっきりと区分されており、さらに大書院は幕府の上使を迎えたり、儀式、接客の場としての役割を担っていたりしたことがわかります。

  監修 篠山城大書院復元室