篠山の城下町の形成は、慶長15年(1610)を初めに年を追うごとに城下町が整備されていきました。 城下町の形態は、城下町の東西に番所を配置し、町全体が軍事上の防備を目的とした備えになっていました。 その中でも、寺々は城下町の防備上大きな役割を担っていたといわれ、有事の際には砦等として利用することを目的として城下町の要所に配置されたと考えられています。 篠山城下の寺々は、八上城下から移されたものが多くありました。 これらの寺は東から城下町の主要道路に沿うかたちで真福寺、観音寺、尊宝寺、来迎寺、誓願寺、妙福寺などであり、城下町の主要な部分に配置されています。 このような例は全国の城下町にも多くあり、例えば備中高梁(岡山県高梁市)のように寺そのものが長大な石垣を備え、あたかも城郭のような構造をもったものもあります。 しかし、江戸時代中期以降になると、軍事都市的色彩よりも経済都市的色彩を濃くしていきました。 このことは、江戸幕府の強力な統制下にあって、武力よりも経済力の方が重んじられるようになり、城下町は、文明、文化を生み出していく消費都市への移行が考えられています。 参考文献 城と城下町の旅 - 西の旅 - 日本通信教育連盟編 - 篠山町編纂 篠山町七十五年史 |