城郭の上に一段高くそびえる天守閣は、戦いに明け暮れていた時代に、領主の居館であった建物に物見の部分が造られ、それが天守閣になったといわれています。 天守閣は、平屋の建物を何重にも重ねて行く重層建築になっていました。 そして、関ヶ原の合戦以前から出現し、大阪夏の陣の元和元年(1615)ころまでに建築された天守閣は望楼型天守と呼ばれ、現存する犬山、彦根、姫路、松江、丸岡、高知の各天守閣がこれに属します。 そして、関ヶ原の合戦(1600)以後出現し、江戸時代を通じて建築された天守閣が層塔型天守と呼ばれ、現存する松本、丸亀、宇和島、備中松山、弘前、伊予松山の各天守閣がこれに属します。 また、興味深い話として、篠山城の縄張りした藤堂高虎が層塔型天守の創始者であるといわれ、高虎が築いた丹波亀山城(京都府亀岡市)の天守閣完成後、しだいに全国に普及していったと考えられています。 さて、篠山城の天守閣ですが、天守を建てるための土台である天守台を本丸東南隅に造りましたが、城があまりにも堅固に出来たためか、徳川家康は天守閣の建築を許可せず「天守閣は人目に立って敵方のねらいとなるだけで、この城には無用のものである。それよりも優れた城主を置く方が肝要である」といったといわれています。 そして、天守閣建築の用材は集められましたが、江戸時代を通じて、天守台には小さな隅櫓と塀のみが造られていました。 また、一説には二の丸西側(篠山中学校側)の石垣に三層の櫓があり、これが天守閣の役割を果たしていたといわれています。 昭和41年から始まった二の丸石垣の修復工事も今進められている天守台を残すのみとなり、これが完成すると380年ぶりに元の姿に戻ります。 今日まで美しく保たれてきた城の高石垣、歴史の中を歩んできた先人たちの苦闘を忘れてはならないでしょう。 参考文献 復元大系日本の城-9 -城郭の歴史と構成- ぎょうせい 篠山城 -史跡篠山城跡保存管理計画策定書- 1978-篠山町教育委員会編 |