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八上城悲歌

八上城悲歌 八上城の歴史

篠山城跡から望む高城山 篠山城跡から望む高城山 ●八上城の歴史●

 かつての新太閤記や最近では「秀吉」などテレビ、小説の戦国ドラマでたびたび登場して来る丹波の古戦場、八上高城は天正の初めごろ、戦国武将として丹波、但馬、摂津にかけて40余城、30余の砦を抑えていた波多野氏の拠城であった。応仁の乱後、伯耆(鳥取県の一部)波多野家より分かれて、丹波に留まり、朝路山のふもとに“蕪丸(かぶらまる)”を築いた波多野経基(別名秀長)が最初である。その子孫、秀範(別名秀忠)が丹波守護職になり、はじめて山頂に城を築いて高城と号し、植通、秀経(別名晴通、元秀、晴秀)に至って防備を増強した。


 しかし、秀経には男子がなく、因幡(鳥取県の一部)波多野家から秀行(別名清秀)の子、千勝丸を養子に迎え、元服させたのが、武勇にすぐれたこの八上城主、秀治である。

 八上城は秀経のころ(天正23年ごろ)一時、三好長慶の臣、松永久秀に占拠されたが永禄9年、秀治は養父秀経とともに奪回、秀治の代に至って本丸、二の丸、三の丸、岡田丸を構築し、歴史に残る難攻不落の山城につくり替えている。


 織田信長の“天下統一”が始まった天正3年から同7年にかけて、明智光秀、羽柴秀長らの大軍による丹波攻め始まり、前後11回にわたる攻撃にも八上城はゆるがなかった。一族の氷上城主・宗高をはじめ、因籍関係にある稲壺城主・赤井景遠、三木城主・別所長治、さらには中国の毛利勢らの支援もさることながら、40余城の丹波武士の勇敢・巧妙な軍略と自然の地形をうまく取り入れた軍略的な陣地構築が、織田勢を寄せ付けなかったといえる。

 だが、この城も光秀の多紀、氷上連合勢力の分断作戦による金山城占拠によって急変、和議と称する謀りごとで秀治は51才、弟秀尚は25才で命をたち、城に残った義弟・二階堂秀香ら多くの将兵は2ヶ月の籠城の末、本丸に火を放ちことごとく自刃した。時に天正7年8月9日のことであった。


 丹波一大合戦ともいえる古戦場となった八上城には落城の悲話を秘めた伝説も数多い。朝路姫が身を投じた朝路池、血洗池、はりつけ松…など、その1つ1つををたずねながら遠く400年の昔をしのぶのもよい。慶長14年、篠山城の築城で、八上城の下にあった誓願寺や、来迎寺、観音寺らは篠山に移り石垣のほとんども篠山城に移されて、当時の城壁の偉容を見ることは出来ないが、天にそびえる古松と丹波富士の呼称を持つ秀峰だけが過ぎし日の歴史を秘めて昔を今に伝えている。

八上城(高城山)歴代城主

城主名

居城年・事項

年数

波多野経基

  (秀長)

波多野秀範

  (秀忠)

波多野秀経 

 

永正以前(年代不詳)

  朝路山の西南山麓に蕪丸を築いた

永正5年(1508)

  朝路山上に陣地を築き高城と称した 

防備を増強した

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