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八上城悲話

八上城悲歌 波多野一族

篠山城跡から望む高城山 篠山城跡から望む高城山 ●波多野氏の起こりと勢力●

 波多野家血統鑑によると、祖は天ノ児屋根命で、藤原鎌足―不比等―房前―藤成―豊沢―村雄―秀郷と続く。秀郷は田原藤太秀郷といい鎮守府将軍になっている。初めて波多野の姓をもちいたのは秀郷から6代目の経範からで、経範は相州(神奈川県秦野市)の祖となっており、さらに経範から6代目の義重は越前(福井県)の波多野の祖で永平寺を建立している。

 丹波の波多野家は、義重から4代目の経基から(一説では義重の先代、忠綱の弟、経朝ともいう)で、その後、秀範、秀経と続く。永正年間(1504~1520)に朝路山に城を築いたのは秀範のころだった。城下を“八上”と呼ぶことにした秀経(秀範の子)には男子が生まれず、同族の因幡(鳥取県)の秀行の子、千勝丸(千熊丸ともいう)を養子に迎え、元服して秀治と名乗らせた。

 東屋形となった秀治は実弟、秀尚をも八上に迎えたほか、東南篠の城主、酒井重貞の子、秀香を養弟とし、二階堂姓を名乗らせた。また、自分の二人の娘を穂壺(氷上郡柏原町)の城主、赤井景遠に、いま一人を三木城主、別所長治に嫁がせた。

 西屋形と呼ぶ氷上城主、波多野宗高は秀治と親戚関係にあり、これらの一族郎党の支援を受けた秀治は、天下を二分するほどの勢力を張った。

●家紋についての雑音●

 波多野家の家紋は、九州島津家の家紋によく似た丸に十の字の“出くつわ”。紋のイメージから見ても、城主秀治がその昔から隠れキリシタンであったのではないかーとの説もある。だが、同族会の本家筋はこの説を真っ向から否定して「家に伝わる佩刀には観音、勢至、不動の梵字が彫ってあり、仏教に縁は深くても、キリシタン信者出会った資料はない」といっている。しかし秀治の養父の秀経の親、秀範の奥方は摂津の能勢氏の娘。能勢氏は当時高槻城主だった高山右近との交友が深く、“十字の先に筈の切り込み”を加えたものを家紋にしているほど。係る関係から波多野氏は秀範のころからキリシタンの信奉者ではなかったかと思われ、能勢氏の家紋と共に禁制で丸や切り込みを付けてのカモフラージュともとれる。


 八上城の城主が隠れキリシタンとしてみた場合、城の鬼門に当たる般若寺にクリスを祀る天通寺が建設されたこともうなづける。また大渕にある長徳寺にはマリア観音の拝像仏もあるが、この長徳寺はもと大通庵といっていたというから、もっと以前は天通庵といっていたかも知れない。とにかく八上城を取りまく周囲の村落に、キリシタン信者が多かったことからも、城主が信奉者だったーとの見方も出来る。