「小野原(おのばら)」
現在の今田町、東条川支流の四斗谷(しとだに)川流域一帯をいいます。地名の起こりは、この地域一帯が原野であったことによるものとされています。
「小野原」の地名は、ずいぶん古くから存在したようです。平安時代、京都の宇治に平等院鳳凰堂が建立された頃、東大寺文書に「多紀郡西県住吉御領小野原御庄‥(にしあがたすみよしごりょうおのばらみしょう)」と名前が記され、国役(くにやく)(国の役人が命じた税の一種)が免除されていました。当時の荘園は住吉社領と東大寺領の「小野原荘」があり、両者で争いを起こしていた記録があります。
また、「平家物語」のなかに、寿永(じゅえい)3年(1183)、源義経がこの小野原地区を通り、三草山(社町)で平家を破った記述は有名です。
応仁の乱〈1467~1477〉の後、小野原荘の地域は、現在の今田町全域と油井、味間地域にまで広がりました。荘内には住吉社が8社も造られ、栄えました。その元締めは、「蛙(かえる)の宮」と呼ばれる住吉神社でした。祭礼には太鼓にあわせてササラを持って飛び回る「蛙踊り」の田楽(でんがく)が奉納され、現在も受け継がれています。
小野原村は、江戸時代の中頃に上小野原村と下小野原村に分かれました。これは、年貢(ねんぐ)を取り立てるための検地(けんち)(田畑の測量)を行ったとき、村切り(分村)が行なわれたようです。
現在の下小野原村コミュニティーセンターには、分厚い板に彫られた素朴なお地蔵さんがあります。このお地蔵さんには、おもしろいお話が言い伝えられています。
とにかく霊験(れいけん)あらたかで、日照り続きで田畑の作物に被害がでるような時には、このお地蔵さんを川に投げ込むと必ず雨が降るというご利益があるのだそうです。また、大人が無礼な取り扱いをするとタタリがあるのです。ところが、子どもが取り扱うときには、どんなに乱暴に扱っても決してタタルことはなかったそうです。このお地蔵さんは子どもが好きで好きでたまらなかったのでしょう。
現在の世の中になくてはならないお地蔵さんのような気がします。
(参照図書) 角川日本地名大辞典、多紀郷土史考、今田町文化財記録第3集
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖
▼今田町上小野原付近