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丹波篠山地名考

「大山(おおやま)」

 「大山」という地名はずいぶん古くからあったようです。京都市の東寺にある古文書に、丹波国多紀郡河内郷の土地を取得し、東寺領の荘園として「大山荘」が記録されています。承和12年(845)とありますから1000年以上も前のことです。
 荘園とは、都の大きな寺院などが開墾した田を集め、寺院私有地として国の税を免除された「墾田」をいいます。のちに国の役人の不当な税の取り立てや雑役をのがれるために、寺院に土地を寄進したものもありました。村の人々は役人の支配を受けない代わりに領主に税を払わなければなりませんでした。
 大山の里は、栄枯盛衰を繰り返しながらも東寺領荘園として受け継がれてきたのでした。しかし、承久の乱(1221)のあと武蔵国(現在の埼玉県)中沢郷から、中沢佐衛門尉基政が地頭として大山荘に入り、次第に勢力を伸ばしてきました。そして、東寺の権益を侵害するようになったのです。東寺は幕府に要請し、「下地中分」といって、領地を地頭と分け合って年貢を確実に取れるようにしたのでした。
 こうした支配者の年貢取りの争いを見ながら、土地の百姓たちは村の自治組織を固め、力をつけてきたのです。荘園の年貢取り立て役の不正をあばくとともに、百姓たちが責任を持って年貢を納入する約束をとりつけ、一反に1石の年貢を大幅に引き下げることに成功しました。これを「百姓請」といいます。文保2年(1318)のことでした。それから200年、地頭職と荘園代官の支配権争いがくり返され、応仁の乱(1467)によって全国が戦乱に巻き込まれていきました。
 永正5年(1508)、大山荘内でも合戦が始まりました。この間の状況を荘内の百姓が東寺に報告しています。「わざわざ飛脚をもって申し上げます。そもそも今度、中沢日向守討死の儀につき、当荘のことは代官職を波多野殿が打ち取りに御成敗なさると申されます。そうなっては当谷のことは、一向、亡所となるでしょう…」こうして、ついに東寺荘園としての「大山荘」は終わりを告げたのでした。
 旧大山村は、追入、大山宮、大山上、荒子新田、石住、高倉、大山新、一印谷、町ノ田、徳永、長安寺、北野新田、北野、大山下、明野、東河内の17大字からなっています。

(参照図書) 大山村誌、角川日本地名大辞典、日本史広辞典
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖


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