「味間(あじま)」
味間小学校区一帯が「味間」といわれるところです。明治22年(1889)町村制がしかれたとき、味間北・味間南・味間新・味間奥・吹新・西吹・網掛・杉・東古佐・西古佐・中野・大沢・大沢新・東吹(上・中・下)の14か村で構成されました。その後、開発が進むにつれて、弁天・住吉台・音羽住宅・音羽グリーンタウンが生まれました。
「味間」という言葉の起こりを調べてみますと、むかしむかし、このあたりは沼地が多く、広大な湿地帯が広がっていたようです。したがって、湿地や沼には、たくさんの葦(芦)が生えていたのでしょう。そうした葦の合間に見えるところ・葦間(芦間)から言葉がなまって、「味間」と呼ばれるようになったという説があります。
こうした地形のため、泥深い田んぼがいくつもありました。特に、大沢地区などはそれがひどく大変だったようです。元禄8年(1695)、時の大庄屋、大沢村・杉本八右衛門が弁天から北に川を掘り進め、篠山川に水を落とすことに成功しました。このおかげで、広大な田畑が開かれました。彼の徳をたたえて、広がった土地を「杉本村」と名づけたのでしたが、当の八右衛門が固辞したので、「本」をとって「杉村」が誕生したということです。
味間地区に降った雨は、すべて一つの川に集まるのではありません。JR篠山口駅の南東約100メートルの田松川に、武庫川に流れる水と加古川にそそぐ水の分かれる所があります。ふつう、山の尾根に降った雨水は、全く別の方向へ流れていきます。これを「分水嶺」といいますが、ときには、谷(平地)にある場合があるのです。このような分水嶺を「谷中分水界」といいます。これは全国的にみてもきわめて珍しい現象です。歌の文句じゃありませんが、「流れ、流れて…どこどこいくの…」。一度、現地を訪れてみてください。標高約195メートルの「分水界」です。
(参照図書) 多紀郷土史考、丹南町史、角川日本地名大辞典
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖
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