「乗竹(のりたけ)」
篠山川の支流、宮田川の中流域に西紀小学校があり、その北側に位置するのが乗竹(のりたけ)という集落です。
むかしむかし、このあたりは見内(みうち)にある二村(ふたむら)神社の氏子でありました。この二村神社は、市内の西半分一円を氏子に持つ大社だったといわれます。ところが、ある年の祭礼の日に大騒動が起こりました。
「古ハ酒井、大山、宮田、小野原四庄ノ氏神タリシガ文明14年神事ノ節真南条村民卜口論起り遂二各村分離シテ宝物古文書等各々持分レ各村二神社ヲ祭祀(さいし)ス・・・」と記録に残されています。
文明14年(1482年)祭礼の当日、酒井庄、大山庄、宮田庄、小野原庄の氏子代表が神社に集まったとき、酒井庄の座席の席順争いがついに和解に至らなかったのです。これを知った氏子一同はわれ先にと神社の宝物を持ち出し自村に持ち帰ったのでした。すなわち味間へは神輿(みこし)を、真南条へは御榊体を、また板井へは獅子頭を、栗柄は鉾幣を持ち帰ったといわれます。遅れてきた矢代新村などは何もなく、椀(わん)の箱だけを持って帰ったということです。
さて、当村は何を持ち帰ったかというと、立派な神馬(しんめ)だったのです。この神馬は垣屋との間の喰谷に飼われ、神社の祭礼はこの馬に乗って催されたのでした。しかし、この神馬が死んでからは篠竹で馬の形を作って乗ったことから『乗竹』の地名が起こったと伝えられています。
はて、さて…神馬を持ち帰ったころ、当村は何という呼び名だったのでしょう?
(参照図書) 角川日本地名大辞典、多紀郷土史考
兵庫県文化財保護指導委員 大路 靖