「篠山(ささやま)」
篠山盆地の中央部、篠山川の中流域右岸にあたるところです。中世の頃は、丹波国日置荘黒岡村の一部でした。「篠山」の地名の由来は、黒岡村にある小山を(聖なる山)と称したことによるとされています。古くは「佐佐山」「笹山」等とも記されました。
この小山を利用して新しい城(現在の篠山城跡)が築かれるまでは、黒岡村50戸の氏神であると古くより砦があり、戦国時代には八上城主波多野氏に属しておりました。
「篠山」と呼ばれる名称が史料で初めて現れるのは、永享2年(1430)に書かれた「目代蔵人太夫感状」に、『永享元年9月、丹州篠山合戦に際し、岩淵上総を討ち取り、比類なき手柄感じ入り神妙の至り……』との感状が木原右近亮に出されています。この頃は、畿内各地に土一揆(荘園領主や守護大名に対して、地侍や農民が年貢の減免や謝金棒引きを要した闘い)が多発し、混乱の世の中でした。
木原右近亮は、毛利家の家臣であることから、これらの土一揆をするため、毛利の軍勢が丹州に来て合戦に及んだのではないかと思われます。そして、応仁の乱(1467~1477)を経て、戦国時代へと時代は移り変わり、関ヶ原の戦い(1600年)に勝った徳川家康は、慶長14年(1609)この小さな丘『篠山』に城を築かせたのです。
(参照図書) 角川日本地名大辞典、毛利家文庫蔵
元丹南町史編纂委員 稲山 稔也