「畑(はた)」
平安時代に書かれた「延喜式神名帳」(917)に、「佐々婆神社」の名があります。また「和名抄」(931~938)の多紀郡八郷の中に、「宗部」という地名があります。これが現在の畑地域です。「宗部」は「宗我部」とも書きますが、奈良時代以前は、「宗部里」と呼ばれていました。その範囲は広大で、凡そ旧畑村全域と旧雲部村の西部(春日江や佐貫谷、泉、倉谷)が、含まれていたようです。
その後、南北朝時代には、国人の畑氏が出て「畑荘」と呼ばれるようになります。畑氏は、瀬利に「八百里城」や奥畑に「奥畑城」を築いて、領国経営に当っていました。
また、「多紀連山自然公園」に指定されている「畑山」も、平安末期頃から「大岳寺」や「福泉寺」などの山岳寺院が建ち並び、多くの修験行者によって、厳しい修行が行われていました。今も「畑山」と呼ぶのは、南北朝時代以後のことです。
文安3年(1446)には、細川満国の子、持春が奥畑に太寧寺を建立しています。江戸時代には「畑組」となり、1889年の町村制施行によって「畑村」となりました。
「畑村」という語源は、一般に肥沃な農耕地の村を指しています。
(参照図書) 角川日本地名大辞典、多紀郷土史考
丹波史懇話会会長 中野 卓郎
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