「京口(きょうぐち)」と「港(みなと)」
「京口」の地名は、その名のとおり都への玄関口として、各地で多く残っております。
市内の河原町は、京への出入り口として藩制時代には、多くの商家が軒を連ね、街道東方京口橋への通りを中心に「京口」と呼ばれてきました。その後、橋を渡った池上や糯ケ坪にも民家・商店が建ち並んで賑わいはじめると、このあたりも含めて「京口」と言うようになり、橋をはさむ両地域での呼称となったのです。糯ケ坪の街道は、もともと「縄手」とも言われておりましたから、こちらを片方の河原町と区分して「京口縄手」とも呼んでいます。
京口橋は、明治のはじめ豊岡県管下の時に「豊篠橋」と名づけられていました。豊岡・篠山両方の頭文字をとったのでしょう。その頃のこと、新川を開削し篠山川の水を導入、その流勢を利用して三田方面へ舟で物産を輸送するという計画が持ち上がりました。いわゆる「田松川通船事業」です。文明開化の波に乗り、一大事業としてひとまず完成はしたものの数年で廃業の止むなきに至りました。大きな原因は、水深が浅く水が涸れると舟が通らないということです。この時、京口に荷物の揚卸し場として浜蔵が建ち、水路中最大の篠山会所ができました。糯ケ坪浜の名称がつけられましたが、地元ではここを「湊」と呼ぶようになりました。これが現在の「港」の起源です。
かつての糯ケ坪浜の名残は、現存している水路でわずかながらしのばれます。その当時、舟とともに南へまかせば武庫の津へ、北に下れば播州高砂浦へと続いていたのです。今でも井堰水門によって、流れは自由に調節できます。
ただ、近年のほ場整備事業により、田松川もその姿の大部分が消えました。市民の皆さんには、ここが起源を辿る唯一のよすがとなるのではないでしょうか。
(参照図書) 多紀郷土史考、丹波国多紀郡篠山町誌
篠山文華学会会員 小野 守之
▼京口橋からの景色