「日置(ひおき)」
平安時代の承平年間(931~938)に書かれた「和妙抄」の中に、丹波の郷「日置」(へき)があります。旧多紀郡の国造的豪族に「多紀臣」や「日置君」の名前が見られることから、古くから「日置」の名称が存在していたことが判ります。
ところが、この「日置(日置郷)」の地が、どの辺にあったのか、あまり知られていないようです。「日置郷」は、現在の城北・黒岡を中心として、その南の方から北の方へと、広範囲な土地でした。
やがて、明治23年の町村制施行によって、大昔から伝えられてきた「日置」の名称が消滅することになったのを惜しまれ、波部本次郎氏(当時郡会議員)が、新村(しむら)組の地を「日置村」として残されたのであります。しかし、またまた昭和30年、日置・雲部(しののべ)・後川(しつかわ)が合併して「城東村」となり、再び「日置」の村名が消滅することになりました。そこで、旧八上新の大字名を「日置」と名称変更して、永久に残されることになったのです。
このように、平安時代以前から呼ばれてきた「日置」の地名も、幾多の変遷を経て、旧多紀郡の中央部から、東の方へ移り、さらに村名から縮小され、大字名になって現在もなお生き続けているのです。
▼城東小学校周辺