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丹波篠山地名考

「多紀」の名は

多紀郡 丹波の山なみに周囲を囲まれた篠山盆地は、古くから「多紀郡」と呼ばれてきました。名前のいわれはともかくとして、「多紀郡」の名は奈良の都があった平城宮跡から出土した木簡(木片に墨で書かれたもの)の中に発見されています。
 その木簡には、「多貴評」(たきのこおり)・「多紀郡」という名が書かれておりました。すなわち大化の改新(645年)後、7世紀の後半には篠山盆地から奈良の都へ、貢ぎ物や税金が届いていたことになります。正倉院にある神亀3年(726年)の文書にも、「丹波前国多貴郡」と記されています。
 また、1979年のほ場整備の際、「郡」という刻印のある土器の破片や、「御厨(みくりや)」と墨で書かれた土器の破片が見つかっていることは、現在の郡家地区の周辺に「郡衙(ぐんが)」と呼ばれる役所があったことが証明できそうです。さらに、古代の山陰道が通っていた証として、「小野駅」の跡も残されています。
 こうしてみると、わたしたちの住んでいる地域は、古代から政治の中心であった都と深いつながりを持ち、政策の伝達や文化の広がりに重要な役目を果たしていたことがうかがえるのではないでしょうか。