福住伝統的建造物群保存地区の概要

保存地区の概要・範囲図

■名称:篠山市福住伝統的建造物群保存地区(ささやまし ふくすみ でんとうてきけんぞうぶつぐんほぞんちく)

■所在地:兵庫県篠山市福住、川原、安口、西野々の一部

■面積:約25.2ヘクタール

保存地区決定告示年月日:平成24(2012)年7月19日

■重伝建選定年月日:平成24(2012)年12月28日

■保存計画策定告示年月:平成24(2012)年7月19日

 篠山市福住伝統的建造物群保存地区の範囲

 保存地区の沿革

 福住の町並みは、篠山盆地の東端、篠山川の支流となる(もみ)()川が形成した河岸段丘上に位置し、篠山盆地を東西に横切る西京街道(京街道)が盆地を東に抜け、籾井川と平行して走るようになるあたりから、街道に沿って町並みが広がります。

 古代には丹波国多紀郡八郷のひとつ()(つぐ)(ごう)に属しており、現在の小野(おの)(しん)周辺に山陰道の駅馬として小野駅が置かれました。さらに、平安・鎌倉時代には丹波国に貴族や大寺社の荘園が多く設けられ、福住は籾井庄の一部であったと考えられます。

 室町時代には足利将軍家の内衆を書き上げた『応仁武鑑』の中に「丹波福住 一万五百石 仁木兵部(にきひょうぶ)太夫(だゆう)成長(なりたけ)」と記されており、福住一帯が仁木氏の支配下にあったことがわかります。

 戦国時代になると、多紀郡では管領細川氏の被官であった波多野氏が勢力を伸ばし、高城山に築いた八上城を中心とする勢力圏を形成しました。福住は波多野氏の被官であった籾井氏の拠点でした。籾井氏は中世以来この地域に拠点を置く在地領主であったと考えられ、永正年間には福住の北を流れる籾井川を挟んだ対岸の山上に籾井城を築くとともに、安口の籾井川対岸には安口城、安口西砦といった支城を設けていました。

 天正6年(1578)の明智光秀による丹波攻略により、波多野氏を中心とした丹波衆は勢力を失います。その後、丹波国の領主は度々入れ替わりますが、慶長13年(1608)に松平康重が八上城に移封され、徳川家康の八上城を廃し新たな場所に新城を築城すべしとの命令により、慶長14年(1609)に篠山盆地の中央にある笹山という独立丘陵に、15カ国20の諸大名によって天下普請で篠山城が築かれました。

 このように、天正~慶長期にかけて多紀郡の地域構造は大きく変化しますが、福住はかかる変容の影響を直接的には受けなかったと考えられます。しかし、丹波国が諸大名の所領として細分化される過程で、福住村・川原村は篠山藩領、安口村・西野々村は亀山藩領へ編入されたため、幕藩体制下では別々の藩領として存在することとなりました。

  篠山藩は、篠山城下を中心とする街道整備の中で、西京街道沿いの「福住村」、「()(いれ)村」、摂津・播磨を結ぶ街道沿いの「古市村」をそれぞれ宿駅に指定し、いずれの村も近世を通して宿場町として繁栄します。福住は、京、大坂との交通の要衝であり、本陣・脇本陣が置かれ、近世後期には2軒の山田家が本陣・脇本陣を勤めました。またその他にも、篠山藩の御蔵所が置かれ、米蔵・籾蔵やそれらを管理する役人詰所が建てられました。一方、川原村、安口村、西野々村は、農村集落として位置づけられますが、安口村には関所が設けられ、福住村が宿場町となったことから農業と兼業で旅籠や茶店などを営む家もありました。

  また、川原村に位置する住吉神社の水無月祭は、18世紀後半に造り物を中心とした祭礼から曳山の曳行を伴う祭礼となり、その後、福住村出身の遠山宗九郎満直(文政6年~明治35年)によって各山車ごとに独自の打込囃子がつくられました。曳山の形状や巡行時の囃子は京都の祇園祭を彷彿させ、打込囃子は大阪の文楽からの影響が想定されるなど、京、大坂との交通の要衝であった地域の地理的、文化的環境をうかがわせるものです。

  明治維新にともない宿駅の制度は廃止されますが、明治時代中期頃までは旅客交通量、貨物輸送量の増加により宿場町として繁栄を続けます。しかし、こうした繁栄も、鉄道・道路網の整備が進むことによりかげりを見せるようになります。とりわけ、明治32年(1899)に京都・園部間を結ぶ京都鉄道(現JR山陰本線)、神崎・福知山間を結ぶ阪鶴鉄道(現JR福知山線)が開通したことにより、福住は大きな打撃を受け、旅客を対象とする旅籠や商店は徐々に廃業していきました。その結果、特定の産業を持たない福住は農業を中心とした農村集落としての性格を強めていくこととなりました。また、昭和47年(1972)には福住を経由して篠山・園部間を結ぶ予定であった国鉄篠山線が計画途中で廃線となったことも福住の経済的な発展に影響を与えました。

  このように、明治以降、福住は近代化の影響をあまり受けず、そのことが伝統的な町並みを現在まで残す要因となりました。現在、街道沿いの大字福住から大字西野々にかけて、江戸後期から明治期に建てられた妻入民家を中心とした町並みが続いており、江戸期以来宿場町を中心として発展した面影を色濃くとどめています。

※ 本文内において、保存地区の範囲を「福住」と表記します。

 

昭和58年頃の福住の町並み 昭和初期の一里塚の松 昭和初期の水無月祭 本陣に掲げた標札

 

 保存地区の特性 

 福住の町並みは、その周囲を緑豊かな丹波の山々に囲まれ、四季折々の表情を見せます。集落の後背地を形成する農地では、丹波篠山黒豆や米などが作られ、山間に田園風景が展開し、集落に平行して流れる籾井川などの豊かな自然環境が集落景観の形成に大きな影響を与えています。

 周囲の山には、籾井城をはじめその支城である安口城、安口西砦など中世の城館が点在し、山麓部の数多くの寺院とともに景観を特徴づけています。

 街道沿いには、一里塚や道標、常夜灯篭などの歴史的環境を形成する工作物が点在するほか、籾井川の水害対策のための石積みの上に立つ土塀と土蔵の連続が、背後の農地と山並みに調和しています。また、現在においても、住吉神社の水無月祭(pdf)をはじめとする祭礼行事や、キツネガエリ(フクノカミ)やイノコ(クリックすると1979年11月に行われたイノコの動画を再生します.wmv)などの年中行事も継承されています。

 保存地区には、このような遠い過去から継承されてきた自然、歴史、人の営みが脈々と受け継がれ、歴史的な町並みとともに田園景観、地域内に点在する景観の核となる社寺、河川、周辺の山と山麓の集落などが一体となった景観を残しています。さらに、保存地区には宿場町と農村集落の2つの歴史的景観が1つの街道に沿って連続する、全国的にも非常に貴重な町並みが形成されています。

福住 安口 水無月祭

 

伝統的建造物群の特性

 保存地区の伝統的建造物群の特性は、伝統的建造物及びこれと一体をなして歴史的風致を形成する環境要素が作り出しています。伝統的建造物のうち、建築物には宿場町を構成する町家建物、農村集落を構成する農家建物があり、そして伝統的な神社建築があり、工作物には門、塀、石垣、石造物等があります。

 近世の大字福住は宿場町として栄え、街道沿いに連続した商家が町並みを形成しています。敷地割は間口が狭く奥行きが深いものが多く、敷地における建築物の配置は、街道に面して主屋があり奥に離れや土蔵、納屋が配されます。敷地の間口が広い場合は、土蔵や別棟が主屋に並んで建ちます。いずれも敷地周囲を土塀や板塀が取り囲みます。主屋の基本構成は、妻入、つし二階建、桟瓦葺であり、平入も少ないながら存在します。外壁は大壁造の白漆喰塗仕上げもしくは灰中塗仕上げで、側壁に羽目板張の腰板を持つ例が多く見られます。街道沿いの1階軒下部分に格子を備え、半間ほど下がった位置から2階が立ち上がります。二階はつし二階が多く、切妻面に一文字の庇が設けられ、開口部は虫籠窓となっている例が多く見られます。平面形式は、片側に奥行き方向の土間を通し、座敷部分は奥行方向に3室が2列に並ぶ型が標準的で、土間を京都側(東側)に置き、床の間は篠山城側(西側)に置くといった篠山城を意識したと考えられる間取です。屋根形式は、正面側は半切妻造ないし入母屋造で、下屋が付き、背面側は切妻造となる例が多く見られ、小屋構造は、和小屋に登梁を併用した変化に富んだ構造をとります。規模は妻入で二列六間取の標準的な平面形式の場合は、間口が五間半~六間、奥行が六間~七間半で、規模においてそれほど顕著な差は認められず、間口が極端に狭いものは少なく、篠山城下町と比べると間口規模が大きい点に特徴があります。

福住1 福住2 福住3

 住吉神社から東側、大字川原、安口、西野々では、街道沿いに連続した農家が町並みを形成しています。建造物は大字福住ほど密に建て揃ってはなく、かつ街道から1m以上後退して主屋を配置し、中門付きの前庭を設けるなど、落ち着いた街道景観を形成しています。また、主屋に隣接して、妻入、2階建ての農作業小屋を建てる家が多く、町並みの特徴となっています。主屋の基本構成は、妻入、つし二階建、桟瓦葺、もしくは妻入、平屋、茅葺(鉄板覆)であり、平入も少ないながら存在します。桟瓦葺の主屋は、外壁が大壁造の白漆喰塗仕上げもしくは灰中塗仕上げで、側壁に羽目板張の腰板を持つ例が多く見られ、街道沿いの1階軒下部分に格子を備え、半間ほど下がった位置から2階が立ち上がります。二階はつし二階が多く、切妻面に一文字の庇が設けられ、開口部は虫籠窓となっている例が多く見られます。屋根形式は、正面側は半切妻造ないし入母屋造で、下屋がつき、背面側は切妻造となる例が多い。茅葺の主屋は、入母屋造、外壁が真壁造で腰壁を羽目板張とし、表構えには格子が入り、四方に桟瓦葺の下屋が付く例が多い。規模は妻入で二列六間取の標準的な平面形式の場合は、間口が四間半~六間半、奥行が五間~八間半のものが見られるが、多くが間口五間~六間、奥行が五間~七間半に収まっている例が多く、規模のそれほど異ならない主屋が多い。大きな三角の妻面が街道に沿って連続する農村集落景観は、力強く美しい町並みを形成しています。 

川原 安口 川原

 保存地区における近世以来の歴史を持つ神社建築は住吉神社に残されています。住吉神社は大字川原の集落の西端に位置し、社叢と社務所の大規模な茅葺屋根(鉄板覆)が特徴的です。19世紀中期の造営である本殿及び社務所、その他拝殿、土蔵、鐘楼(pdf)、手水舎、それらを包む社叢が一体となって残る、大字福住、川原、本明谷の鎮守社です。また住吉神社では毎年7月に水無月祭が行われるため、大字福住、川原の各自治会区には祭礼の際に曳く山車を収納する山車蔵があり、町並みの重要な構成要素となっています。

住吉神社 住吉神社の鐘楼 住吉神社と水無月祭

 そのほか、建築物と一体をなし歴史的風致を形成する環境要素として、生活用水や防火用水の役割を果たした水路や溜池、景観上優れた庭などがあります。

 


リンク集(外部サイト)


 

篠山城大書院 篠山歴史美術館 青山歴史村 

 

安間家史料館 

 

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