丹波杜氏の由来
●デカンショ節に「丹波篠山、山奥なれど 霧の降るときゃ 海の底」と霧深いことで有名です。昼夜の温度差は大きく厳しい自然環境は二毛作のできない土地として、江戸時代の農民は裏作に変わる副収入として酒造出稼ぎを見つけました。
●歴史は古く丹波杜氏組合発行の「丹波杜氏」に、江戸時代中期の1755年に丹波杜氏が現れたと記されてます。
篠山曽我部(現在の篠山町日置)の庄右衛門が池田郷の大和屋本店の杜氏として銘酒山印や滝の水を造ったのが、丹波杜氏最古の記録です。江戸時代末期までに約50人が記録されています。そして今日まで200年以上の伝統をもつ「丹波杜氏」として実績を誇ってきたました。
さて、なぜ出稼ぎが起こったか、なぜ酒造出稼ぎが盛んになったか、その要因は次のように考えられます。(篠山町百年史から)
- 江戸時代、藩の年貢の取立がきびしかったこと。
これは江戸時代における郡内の一揆の起こった回数が、県内各藩の中で最も多かった。再々飢きんに遭遇したほか、篠山藩は徳川譜代の大名として重きをなしていたので、藩の交際費も多く必要としたと思われる。
- 多紀郡の気象条件は冬季における寒気がきびしく、加えて郡内ほとんどの田地が湿田で、稲作以外の農業に適さず、米のほかには目ぼしい収入のなかったこと。
- 物々交換や自給自足時代から貨幣制度時代へと発展する中で、貨幣価値が大きく高まってきたこと。
これらのことから、農家の経済が苦しく、幸い冬季のみを利用し、しかも米と結びついた比較的有利な酒造りの出稼ぎを選んだのでしょう。
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