現代の清兵衛・大対勇三郎
大対勇三郎翁は1888年後川村後川上に生まれました。性格は温厚で極めて勤勉で、西宮市西宮酒造会社に56年間勤務しました。
1955年多紀郡の酒造で稼ぎ者は2026人を数え、その収入は当時の家計の25%を占めていたといわれています。
しかし、酒造出稼ぎの門は、すべての人たちに開かれていたわけではなく、被差別部落の人たちには固く閉ざされていました。
1956年当時の城東町では教育委員長であった金剛寺住職北村昌亮老僧を中心にして全村教育活動がおこりました。話し合いの中で当面する大きな願いのひとつとして酒造出稼ぎの問題が出されました。門戸開放の取り組みは約20人が村内の杜氏を1軒1軒回ることからはじめられました。一方で第1号としてまじめな東田青年に白羽の矢を立てました。
そのような中で大対勇三郎杜氏が自らの力で偏見をうち破り、会社と掛け合いその門をこじ開けました。10月8日東田青年のもとに大対杜氏から「採用します」という朗報が届けられました。大対杜氏にとっては杜氏生命をかけた英断でした。
〇大対勇三郎さんを想う
地区住民を酒造に採用することは前代未聞なことで、大変な勇気と覚悟が要っただろうと思います。当時(1956年)70歳ぐらいで背が高く、がっしりした温厚な感じの人でした。72キロ(酒樽四斗)を軽々運ばれていた記憶があります。まさに「気は優しくて力持ち」といった包容力のある人でした。
昇進を推挙するときは会社の方に身の上のことや仕事に対する勤務成績を評価して書面や口答で紹介と保証までされたと工場長より聞かされ感銘しました。
初めての酒造期を終わり帰郷すれば大対さんはまじめでよく働き模範生であると評判をしてくださった。無我夢中で過ごした一年であったが、翌年からの私の励みになり、この出会いで今日の私があるといっても過言ではないと思います。(東田昌)
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