減り続ける丹波杜氏
多紀郡からの酒造出稼ぎは、徳川末期から明治にかけてものすごい勢いで伸び、1905年には出稼総数5500人(うち杜氏600人)と記録され、当時阪鶴鉄道(現在の福知山線)は、出稼者に毎年期間を定めて運賃2割5分を割引したということです。このころが出稼者数から見ると全盛時代であったということができます。
●近年における酒造出稼
明治・大正期における、いわゆる酒造出稼黄金時代は過ぎ、年々減少の一途をたどってきました。そして従来は酒造りは男の職場と限られてましたが1967年からは初めて女性が進出しました。「甘辛しゃん」の主人公榊泉が酒造りをめざした頃とほぼ時期的に符合しています。
これは伝統の職場も人手不足になったことを物語るものであり、1978年においては、酒造出稼者1091人中に女性60人が含まれています。酒造出稼者が全盛時代の4分の1、あるいは5分の1に減少したこの要因は次のように考えられます。
減少し始めたころは、
- 長い月日に亘って家族と別れての生活は、特に若い人たちに敬遠されるようになったこと。
- 醸造業務は微生物培養応用の特殊業務であるため、ある程度の深夜労働は避けられなかったこと。
- 出稼者に年齢制限(高齢)がなく、職場に幾分封建的なところがあったこと。
そして、近年に至っては
- 経済の高度成長によって、他産業への就職が多くなったこと。
- 酒造工場の近代化が進み、従来ほど人手を要しなくなったこと。
●こうして、多紀郡における酒造出稼ぎは大きな消長の中で、近年郡内には地酒メーカーのほかに灘の「大関」「黄桜」「桜酒造」「五百万石」などの酒蔵工場が建設され、通勤就労ができることになったことは、全国に誇った丹波杜氏の里として極めて意義深いものがあります。
●杜氏の平均年齢が高齢化し、一方で機械化が進むことにより、近い将来丹波杜氏が姿を消すのでしょうか。いくら機械化が進んだとしても、やはり人の手による熟練された技術とかんが加わらなければ何とも味気ない気がします。
丹波杜氏は篠山のもうひとつの財産です。移りゆく時代の流れでも誇りうる地方の財産として守っていきたいものです。
[丹波杜氏表紙] [前のページ]