丹波杜氏
■丹波杜氏酒造記念館
展示室では丹波杜氏の歴史、酒造りの方法をビデオやパネルで紹介しています。酒造りの道具なども展示されています。
所在地 | 兵庫県丹波篠山市東新町1-5 | |
開館時間 | 10:00~17:00 (土日祝は16:00閉館) | |
休館日 | 年末年始(12月28日~翌年1月4日)、11月~3月までの土日祝 | |
入館協力金 | 100円 | |
アクセス | JR篠山口駅から神姫グリーンバス春日神社前下車、徒歩3分 |
※丹波篠山観光ポータルサイトもご覧ください。
◆ 丹波杜氏とは
狭義の「杜氏」とは、蔵人をまとめ酒造りを任される酒造のリーダー(頭司)のことをいいますが、広義では丹波杜氏のように「杜氏」を頂点とする酒造り集団のことをいいます。この集団のほとんどは同郷者により結成されていたので、「地名+杜氏」という呼び方が定着していったようです。
丹波杜氏は、南部杜氏(岩手県)、越後杜氏(新潟県)と共に日本三大杜氏の一つに数えられ、宝歴5年(1755)、篠山曽我部(現在の丹波篠山市日置)の庄部右衛門が池田の大和屋本店の杜氏となったのが、その起源といわれています。
丹波杜氏の供給地は主として多紀郡(現丹波篠山市)の村々で、厳しい生活の中、農閑期の「百日稼ぎ」といわれる「出稼ぎ」(冬季の季節従業員)で生活の糧を得ていました。江戸時代には、伊丹や池田に出稼ぎし、「剣菱」や「男山」など元禄期(1688〜1703年)の伊丹の酒は、丹波杜氏の造り出す銘酒でした。やがて、江戸時代中期以降、伊丹・池田から灘五郷、つまり灘目(上灘と下灘)と今津に移動し、銘酒づくりに高い技術力を発揮。その酒造技術は「丹波流」と呼ばれ、丹波杜氏は、今あるほとんどの灘の銘酒を作り上げただけでなく、全国に指導に出かけ、地方の酒の原形を作りました。
デカンショ節にも♪「灘のお酒はどなたがつくる おらが自慢の丹波杜氏(たんばとじ)」と唄われています。
◆ 丹波杜氏組合とは
【丹波杜氏組合事務局】
〒669-2397 丹波篠山市北新町41 丹波篠山市農都創造部商工観光課内
電話 079-552-0003 FAX 079-552-2090
丹波杜氏の醸造技術の向上、労働条件の統一、蔵人全員の品性の向上を目的に、明治27年、多紀郡の酒造工で「多紀郡醸造稼業改良組合」(初代組合長 青木禎助)が酒造出稼ぎ者全般の組合として全国で初めて設立され、その後「多紀郡醸酒業組合」、「丹波杜氏組合」と発展的に改称。組合員は最盛期には5000人を超えていました。
組合員は「杜氏」だけでなく、杜氏を補佐する頭(かしら)をはじめ、蔵人さん等も加入されています。また、現在では冬季の季節従業員だけでなく、酒造メーカーの常勤従業員も各酒造メーカーからの推薦により幹事会の議決を経て「社員杜氏」として加入されています。
丹波杜氏の特集(PDF)(広報「丹波ささやま」2006年12月号より)
杜氏物語(地域情報データーベースへ)
杜氏の歴史、詳細、義民「市原村の清兵衛」など。また、酒造や丹波杜氏がモデルになったNHK朝の連続テレビ小説『甘辛しゃん』(宮本優子原作 1997年10月~1998年4月まで放映)の撮影秘話なども紹介しています。
※義民 市原村 清兵衛
・・・江戸時代中期、篠山藩は「百日稼ぎ」を禁止した。厳しい生活をしいられた藩内農民の為、市原村の清兵衛が直訴を行う。
◆ 丹波流酒造り唄
丹波流酒造り唄(昭和51年8月録音) ライブラリーのページへ(MP3データで酒造り唄が聞けます)
酒造り唄は、時計のない時代、酒造りの作業を唄いながら行い、時間をはかる「作業唄」でした。仕事の工程毎に「秋洗い唄」、「もと摺り唄」「仕舞唄」などと呼ばれる唄があります。
日本三大杜氏である丹波杜氏の唄う酒造り唄は、「丹波流酒造り唄」と言われていました。
数百年唄い継がれた酒造り唄も、昭和30年代後半の酒造業の機械化により実際の酒造りでは唄われなくなりました。
丹波杜氏組合では酒造り唄を伝統文化として後世に継承していくため、平成16年から「酒造り唄講習会」を開催。平成19年からその受講生を母体として「丹波流酒造り唄保存会」を結成、月1回講習会を行っています。
◆ きき酒会 (「きき」は「口」偏に、つくりは「利」)
丹波杜氏が丹精込めて造りあげた新酒。その新酒の出来栄えを競うきき酒会は、丹波杜氏の技術向上を目的に、毎年春に開催されています。第1回は大正6年4月に開催されました。
大阪国税局鑑定官、日本酒の研究者や専門家が審査員となり、出品された自醸酒を普通酒、純米酒、吟醸酒の3部門で審査します。
きき酒の方法は…
酒の色調や沈殿、容器を軽く動かして流動性を検し、容器の壁面を流れ落ちる状態から比重、粘度などを推定する。
次ににおいを嗅ぐ。口中に約4CC含み舌の上で回して味覚を判断する。その間、口から息を吸い、鼻腔から息を出して含み香(口中香)を検する。2~3秒後にはき出し、後味を判断する。
「辛口の酒」「甘口の酒」…とよく評されるが、杜氏さん曰く、「日本酒には香りで20種、味で50種の表現方法がある」といわれる程、日本酒は繊細なのです。
(参考:「続 丹波杜氏」)
受賞者名簿
◆ 「杜氏」の由来
杜氏は、刀自(とじ)からでた言葉で、刀自とは元来男の刀禰(とね)に対する語で、家事を司る独立した女性を意味した。すなわち、酒はこの刀自の造るものであり、『延喜式』にみえる宮中の造酒司(さけのつかさ)でも、その酒造り役はトネリメ、すなわち刀自と呼ばれる女性で、家政をあずかる主婦であり、儀式や接待はもちろん、その家庭の酒造り人でもあった。新井白石の『東雅』によると、『世に酒造りて商う者の家にて酒造る事を知るものもまた刀自也、昔造酒司に大刀自、小刀自、次刀自とて三つの酒造る壺(つぼ)ありけり、その大刀自は、酒三○石ばかり入りしもの也、後に酒造る人をも刀自と言いしは、古よりいいつぎし言葉なり』と述べている。
このような語源から、江戸時代になると、杜氏はつまり酒造りの責任者を示す役職名で、『日本山海名産図絵』には、その名の由来を、『酒工の長なり。またおやじとも云う。周の時に杜氏の人ありて、その後、葉杜康(ようとこう)という者、よく酒を醸するをもって名を得たり』と述べている。
灘酒造業においても、実際の杜氏の資料には、杜氏を“頭司(とうじ)”と書き、俗称“親司(おやじ)”とも書いて、酒造家より酒仕込みに関する全責任を負わされた者で、頭(かしら)以下の蔵人(くらびと)の監督の任に当たる者をさしている。
また、その蔵人ないし酒男からなる酒造りチームをさして杜氏集団ということもあった。丹波杜氏という場合は、後者の意味での杜氏のことである。
(「続 丹波杜氏」(平成7年刊行) 「近世酒造業の発展と丹波杜氏」(柚木 学)より抜粋)